世界は確率でできている

※『デスノート』劇場版前編のネタバレが含まれます!

  • まえおき

 タバコを一・四本吸う、炭鉱で一時間過ごす、カヌーで六分間移動する、普通の石造りや煉瓦造りの建物に二ヶ月住む*1
 これらは何の数字かというと、死亡する確率を百万分の一で上昇させる行為である。現在では統計学の進歩によってリスクを数値化し、相互に比較することができるようになった。
 それを少し固く言い換えると以下のようになる。

 ドイツの社会学者、ウルリヒ・ベックは、八六年の著作で、その性質を「リスク社会」という言葉で特徴づけている(注12)。現代社会に蔓延するリスクは、原子力発電にせよ食品添加物にせよ、市民が直接に知覚できるものではなく、「化学や物理学の記号の形でしか認識されない」。そのため、見えないリスクへの不安が人々を襲い、現代社会の秩序は、安全性の追求という新たな価値観を基礎として再編成されることになる。
波状言論>情報自由論>第5回

 すなわち、現代社会は確率で動いているのである。

  • 「ボーダーガード」的

 確率を絵で表してみよう。
 「ボーダーガード」というグレッグ・イーガンの短編がある。そこに登場するのが量子サッカーという変わったスポーツ。
量子をボールに見立てて、量子がある場所に存在する確率を操り、最終的にはゴールの中での存在確率が50%を越えると1点になる。
 作者公式サイトにあるJava Appletからキャプチャーしたものを引用する。

 キックオフ時にはこのように均等に分布する。線は確率の等高線のようなものだと考えればいい。

 こういう風にゴールに集めていく。
 ここで強調したいのは、普通のサッカーのように1点がクリアな形で入るのではないということ。

 確率とはあくまで、もや〜としたものなのだ。

 続いて具体例。
 Lの用いた捜査手法はどのようなものだったか?プロファイリングを使って、事件の特徴から、犯人である「可能性が高い」人間を絞り込んでいった。
 そして、なんといっても最後の詩織とナオミの同時殺害である。
 人を操って殺させるということができないデスノートのルール。そのルールを月が乗り越えた方法は、現在の日本において、同じ場所、同じ時刻に「銃を撃つこと」と「銃に撃たれて死亡」という二つの事象が起これば、その弾丸は同じであるという「推論」だった。
 その間には飛躍があって100%成り立つとは言えない。しかし、極めて起こる可能性が高い事象であると月は判断し、実際に起こったのである。
 ここでは、もや〜がスッキリした形であると見なされている。これが「確率を踏まえて判断する」ということである。

  • 判断

 ここであらためて注意してもらいたいのは、ベックがそこで、リスクの有無を技術的な観点のみで判断することの危険性を強調していたことである。リスクの大きさは、人々の生き方、つまり価値観に依存する。したがって、いくら技術者がリスクを価値中立的に評価したように見えたとしても、それは「まやかし」にすぎない、と彼は述べる。
波状言論>情報自由論>第5回

 確率が具体的に分かるようになったとしても、それを並べた上で比較し、どれを選ぶか判断しなければ意味がない。
 例えば、車に乗れば事故に会う確率が家で寝ているよりも高くなるとしても、家で寝てばかりいる人はいない。利便性と危険を比較して事故に遭う確率をゼロと見積もっているか、そうなった場合でも困らないように保険をかけて車に乗るのである。
 このように、どのような局面であれ判断は生きていく上で一生つきまとう問題なのだ。

  • まとめ
    • 今の世の中は確率で動いている。
    • それを比較した上でどう判断するかが重要。