おたく論への応用

 「再現性の有無」という昨日までのエントリの枠組みを「おたく論」に当てはめてみるとどうなるかを書いてみる。

  • 偉い先生の発言

 海外では「オタクブーム」という「洗脳」戦略でもいいし、〜っていう経済学者が誉めているとか、〜っていう哲学者が誉めているとかいろいろ。

 種々の作品を取り上げて特性を語ることとしてみる。『げんしけん』と『究極超人あ〜る 』に見る世代の差とか、そーゆーの。
 この場合、適当に集めたサンプルで全体を語ることが問題となる。「適当」と言ったのは、元となる作品は多くの場合、自分が読んだものの範囲だけだから、一日に300点以上の新刊書が出版されている昨今の事情を鑑みるに、偏りはどうしても生じてしまうという意味である。偏りを生じさせないようにしようとしていないと、その恣意性をツッコまれることが多い。つまり、私の知っている〜が抜けているという風になる。
 例えば、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』に対しての否定的な見解の多くがその見地に立ったものだった。
 あと一つ難しい問題があって、作者の観察から生じた作品を読者が読むことで、読者の行動が変化するというフィードバック機構が働く。つまり、『げんしけん』を読んで、こういうサークル生活を送りたいと考えて行動するなら、それは『げんしけん』が時代精神の表れなのか、それとも『げんしけん』によって行動変容が起きたのかという、卵が先か鶏が先かというような現象がおきてしまう。

  • ヒトでは?

 いくつか例を挙げてみる。

    • ケースレポート

脱オタ症例検討(汎適所属)
脱オタ」と銘打っているが、そこに至るまでの過程は「おたく」の例として興味深い読み物である。
戦闘美少女の精神分析
の2,3,4章。日本のおたく、海外のおたく、ヘンリー・ダーガーという3つの例を挙げている。
萌えの研究
一人の「萌えない男」が「萌える」ようになるまでの例。

    • 横断研究

増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)
 同時代的には人格類型と消費するサブカルチャーが密接に結びついていることをアンケートをベースに分析しつつ、サブカルチャーの歴史も分析するという極めて実証的な論考。

 倫理的に不可能である。
 しかし、もしこれを行ったなら、おたくが人格*1によって生じるのか、それとも環境によって生じるのかなんてことが分かるかも。
 ただし、ヒトでの研究にも問題点はある。アンケートやインタビューによって答えている事柄が「真実」なのかを検証することは不可能だからである。「萌え」が「アガペー」なのか「エロス」なのかという水掛け論なんかがその典型例。
 私の考えとしては、fMRIを用いて、「萌え」が起こっている脳の状態を可視化すればある程度のことは検証できるのではないかと思う。

  • まとめ

 このように並べてみれば、それぞれの論が方法を異にしていることは納得できると思う。
 ここまでをまとめるなら、次のように言えるだろう。
 『げんしけん』から今のおたくというものを語るよりは、『ヨイコノミライ』や『フラワー・オブ・ライフ』なんかも組み合わせた方がベター。それよりは、個々人の自分語りやフィールドワークを合わせていった方がいいんじゃない?
 「再現性」を重視する場合には、これが「確からしさ」へと繋がる道である。

 では、この方向で突き詰めていって、社会調査をしていけばそれでいいのだろうか?
 おそらく、示唆に富むのは野村総研による2900億円市場が云々というレポートへの違和感。
 多くは自身の経験と比較して、「こんなのおたくじゃないよ〜」という違和感であった*2
 逆に、肯定的に受け取られている場合では、その書き手が自身のコミットするおたく文化をもちあげようとする動きと密接に結び付いていた。
 これは何故か?
 一度、元に立ち返ってそもそも何故おたく論が求められるのかを考えてみるなら、その理由は明らかである。
 つまり、おたくとは経済あるいは社会の問題ではなく、そもそも実存の問題ではなかったか。
『おたく』の研究 第1回 | 漫画ブリッコの世界
 『漫画ブリッコ』誌上にて中森明夫という「新人類」によって、その語が発明されたのは1983年6月のことだった。私はその頃は乳児であって、当時を知る人の証言に頼るしかないのだが、その中で参考になった記述。

結局オタク(おたく)と新人類というのは、首都圏の進学校出身者の文化的差異ゲームであって
文化と差別、そして「おたくと新人類」 - ARTIFACT@ハテナ系

 つまり、当初から、蔑視を行うことで、自身の優越感を演出するための道具であったのである*3
 その語が時代を経るごとに変貌していき、人口に膾炙するようになっていった結果、違う意味も持つようになっていった。しかしながら、本質的には「自身がおたくに分類されるのか、されないのか」という問題と密接に結びついていると思う。
 そのため、個々のケースが持つ「一回性」や「意味」が失われる社会調査だけでは限界が生じる。
 また、全体に対する分析そのものも

ジャンルが意味を持った最後の時代
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=448

という『文庫増補版・サブカルチャー神話解体』の前書きでの93年を振り返っての言葉にも見られるように、クラスタの細分化が顕著な現状*4にあっては、その力を失いつつある。
 とはいっても、前回のエントリの最初に戻るが、「個々人が欲しがる物語」を提供することを至上命題とした場合、「ニセ科学」や「あるある」的なものに対する批判の足がかりは失われてしまう。
 結局、全体と個に対する研究のいいとこ取りができるといいんだろうという当たり障りのない答えに落ち着くのだった。
 だから、斉藤環

ラカン」をシステム論に翻案した後に、ふたたび「ラカン」によって、その地平を越えていくことだ
心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか

なんてことを言っている。つまり、個々の立場に応じた精神分析と、全体を論じるシステム論を統合しようという訳である*5。多分。
 ということで、両面作戦を考える必要があるんだろう。今後は「質的研究」辺りの方法論を学ぶことや、地方のおたくという、これまで出版されてきた本ではきれいに抜け落ちている項目についても考えてみたい。
追記:軽く自身の実存をスルーした訳だが、あくまで世間一般で言われるところの「おたく」に分類されるであろう自身の立ち位置を知るための方便である点は強調しておく。

*1:遺伝と言い換えてもいいかもしれない。

*2:ここも本当はサンプルを集めないとダメですが……

*3:ここは「偉い先生の発言」

*4:これは選択肢の増加で説明できる。つまり、正6面体のサイコロをふったときの出た目の合計と正20面体のサイコロをふったときの出た目の合計を正規曲線で表してみたら、裾野はより広がっているという話。

*5:ここも「偉い先生の発言」