その1

  • 前置き

 いささか時期遅れなのかもしれないが、「あるある」の話。
 今回、問題になっているのは情報そのものの正しさについて。明確に嘘である情報を公共の電波にのせてしまったことが非難されている。
 しかし、全てがでたらめだったというわけでもない。例えば、納豆の回ではインタビューに出た人の経歴をいつわったのではなく、あくまで発言内容をいつわったのだった。
 もう一歩進んで、「捏造」がなされていなかった放送回についてはどう評価すればよいのだろう?

  • 「間違っている」ではなく「大袈裟」

 見た回数は片手で足りるような私の意見としては、「蓋然性」の低いことを誇張して伝えていることが問題だったと思う。つまり、起こりにくいことをさも誰にでも起こるかのように伝えることは、妥当な行為ではないだろうと。
 では、どの程度大袈裟であると判断するのか?
 本稿では、「再現性」に重きをおく「帰納的な知」の立場から情報をどう順序付けるのかについて書いてみたい。

  • A→A'

 ちょっと回り道をする。そもそも因果関係って何だろう?

 いくつかの事柄の関係において、一方が原因で他方が結果であるというつながりのあること。
因果関係(いんがかんけい)の意味 - goo国語辞書

 図にしてみるとこんな感じ。

 しかし、ここでDavid Humeの言った問題が出てくる。

 現実において因果関係を推定する場合には、原因となりうるものが一つだけであるとは限らない。このような場合、果たしてどれが原因であったのかを指摘することは可能だろうか?
 例えば、あなた(A)が誰かになぐられたとしよう(b)。そして、その「結果」生じた怪我(A')を治すのに病院に通ったとする。普通なら怪我を起こした「直接の原因」であるなぐった相手(b)に補償を求めるだろう。しかし、このHumeの問題を適応するなら、怪我はなぐったということ(b)以外に、誰かが丑の刻参りをして呪っているせい(c)だとか、惑星十字配列のせい(d)だ、といった「原因」に帰することもできる。
 しかし、そうはならない。何故か。
 誰もが人をなぐれば怪我をするということを「経験上」知っており、二つの間に因果関係を認めているからである。
 これを「確証性の原理」という。

法則に関連する観察が増えれば増えるほど、その法則の確からしさは増大する
帰納 - Wikipedia


 何度も実験をして確かめることができたなら、正しいとしてしまう。これを「再現性」があるという。もし、A→Bのような事象が起こってくるなら、A→A'は正しくないとする。
 この辺りの科学哲学は深入りし始めるときりがないのでここで止めておく。
 とかく、より起こりやすい法則を正しいとみなすということである。

  • 細胞からヒトへ

 命題を検証するに当たっては、何度も実験をやって「再現性」があるかを確かめれば良いのだということを上の段では述べた。では、健康に関する実験にはどんなものがあるんだろう?
 今までに考えられた方法をヒトでの再現性に応じて並べるなら大体こんな感じ。

 どういう風に実験をデザインするかで、その「再現性」は決まってくる。明日は、それぞれの項目について説明してみよう。