ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

「もしこのわたしたちがこれをしなくても」とフランシーンは容赦なく指摘した。「わたしたちは結局ほかの分岐でやってるでしょうね」

  • 背景 

 現代最高のSF作家の最新刊。表紙の絵もすばらしいので早川書房へリンク

  • 読み

 釣りだとは思うが、ちょっと前に読んでもったいないなぁと思ったスレ→ハルヒでSFで興味持ったのにディアスポラ買って挫折した
 イーガン入門としては『祈りの海』と『しあわせの理由』が最適だと実際のところ私も思うが、今回は初めて読んだイーガンが『ひとりっ子』で、なんじゃこりゃと思ってしまった人向けに、ある程度解説となるエントリを書く。需要があるかは分からないけど。
 ここからはネタバレを含むので注意。もし、何を言っているのか分からなかったり、解釈として間違っているところがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。

    • 行動原理

 辺縁系にある快楽中枢=「原始的な脳」の持つ働きを、新皮質の前頭前野=理性を持つヒトで特に発達している部分で操作する。そのことによって「揺るぎない確信」を持つことが可能になる。つまり、理性で完全に感情をコントロールしてしまうのである。イーガンの持ちネタの一つ。
 主人公が理性によって何を求めたか、というのがテーマである。

    • 真心

 究極のラブストーリー。えいえんはあるよ ここにあるよ!

    • ルミナス

 数学に穴があることが宇宙の始まりから決まっていたとする。そしてその穴がコンピューターにややこしい計算をさせると見つかった。これを悪用される前にどうにかしようというのが主人公たちの動機。結局、穴をふさぐことはできなかったけど、その穴について考えることは数学者にとっては楽しいことなんだよ〜というのがオチ。
 実はこの構図って私がイーガンの小説を読む方法と似ていると思ったので、次のエントリでそのことについて書こうと思う。

    • 決断者

 百鬼夜行とは、脳のシステムのどの辺りが活動しているかを瞬時に見ることができる機械である。ちなみに、今でもfMRIという機械を使えば、あるていど長い単位時間とおおざっぱな解像度で脳の働きを見ることはできる。こういう研究なんかが行われている。
 で、この機械を使って主人公が何をしようとしたかというと、なにかを決意する中枢*1を見つけようとしたのだった。そして、そんなものは存在しなくて、脳全体が一つのシステムとして動いているのだということを発見する。
 参考文献に挙がっている二冊は読んだことがないのだが、ベンジャミン・リベットの有名な実験*2なんかも参考になると思う。
 つまり、主人公は「自由意志」=「決断者」というものは存在しないことを見つけたのだった。

    • ふたりの距離

もしほんとうに永遠に生きることになるのなら
正気を保つには、好奇心旺盛でいたほうがいいのよ

他人と一緒にいることで要するなにが重用なのかといえば、それは"他者"とむきあっているという感覚だった。

 「文句なしに今年の恋愛小説ナンバーワン」という言葉はまさに、この作品にこそふさわしいんじゃなかろうか。

 平行世界ネタ。今年、『時をかける少女』や『ひぐらしのなく頃に 祭囃し編』で感涙にむせんだ人なら何が行われているのか分かるだろう。ストーニーはヘレンからイロイロ教えてもらうことで、研究の最適化を行っているのである。
 「双対的」という言葉が出てくる部分は読み飛ばしても大筋には影響しない*3。ハミルトンとストーニーの議論が山場なのだが、ハミルトンは機械は考えることが「できない」と言っていて、ストーニーは「前提条件があるけど、できるだろう」と言っているということは分かると思う。
 最後に出てくる人物の正体は?
 文章だけから考えると、未来のハミルトンとも悪魔とも考えられる。本格ミステリであるという宣言はどこにもないから*4、地の文が間違っているとも考えられる。このへんもまさにひぐらし的

    • ひとりっ子

 「本当の自由意志」をヘレンに持たせようとしていることは分かるだろう。問題は「本当の自由意志」とは何なのかと、それを保証するQUSPとは何なのかという2点である。
 そこに移る前に、前置きをする。量子力学には、主にコペンハーゲン解釈多世界解釈という二種類の解釈が存在する。これについては、シュレーディンガーの猫の例が分かりやすいかと思う。

まず、フタのある箱を用意する。この中に猫を一匹入れる。箱の中には他に、放射性物質ラジウム、粒子検出器、さらに青酸ガスの発生装置を入れておく。
もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これを検出器が感知し、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、猫は死ぬ。しかし、アルファ粒子が出なければ検出器は作動せず、猫は生き残る。
この実験において、ラジウムがアルファ粒子を出すかどうかは完全に確率の問題である。仮に1時間でアルファ粒子が出る確率が50%として、この箱のフタを閉めて1時間放置したとする。1時間後、猫は生きているだろうか。それとも死んでいるだろうか(すなわち、ラジウムがアルファ粒子を出したかどうかという量子的な問題が、猫が生きているかどうかという通常の世界に投影されたわけである)。
通常、我々は箱の中に猫がいても、それが死んでいるか生きているかを言うことができる(=記述することができる)。確かに確率を用いて記述することもあるが、原理的には猫の状態は死か生かの二通りしかない。
量子力学では観測前の猫の状態は原理的に生と死の重ね合わせの状態であり、状態はシュレーディンガー方程式に従って決定論的に変化する。つまり、箱の中の猫は完全に死んでいる状態と完全に生きている状態が重なり合っている(半分、という状態がどこにも存在しないことに注意)という奇妙な状態が続いていると考える。
しかし観測結果は、常に生きている猫と死んでいる猫のどちらか一方である。
シュレーディンガーの猫 - Wikipedia

シュレーディンガーの猫は観測者が観測するまで(観測者にとって)、”生きている猫”と”死んでいる猫”の重ね合わせの状態にある。観測者が観測する過程で(観測者にとって)、猫の状態はどちらか一方に定まる。これがいわゆる波動関数の収束である。

シュレーディンガーの猫のいる世界は、”猫が生きている世界”と”猫が死んでいる世界”に分かれる。当然、”猫が生きている世界”にいった観測者は猫が生きていると観測し、”猫が死んでいる世界”にいった観測者は猫が死んでいると観測する。もちろん、観測者は、猫を観測するまで自分がどちらの世界にいたのか知ることは出来ない。
エヴェレットの多世界解釈 - Wikipedia

 QUSPを用いたネズミの実験の結果は多世界解釈の正しさを傍証するものだった。その上で「デルフト・ゲージはいまのままで、QUSPの遮蔽をもとに戻す」(p367)と、多世界は一つしか存在しなくなった*5
 つまり、無数にある選択枝の中で一つを選ぶと、平行世界が生まれて、その選択枝を選ばなかった自分が出現する。QUSPを上手く用いると、選ばなかった自分の存在を消すことができるというわけである。
 それと自由意志はどうつながるのか?
 最初に主人公は人を助けようと「選択」を行う。多世界解釈に従うなら、その場で立ち去った主人公もいたはずである。そこには何の「意味」も存在せず、ただ枝分かれがあるだけになってしまう。QUSPの技術を用いて、一つしか選ぶことができない存在になることができたなら、その存在は交換不能であり、存在することに「意味」がある。だから、その「選択」を行った主体は「本当の自由意志」を持ちえたことになるのである。

*1:茂木健一郎が「ホムンクルス」と呼んで論じているもの。

*2:「動かそう」という自分の意志で指を曲げる。この意志が発生するのと、指を動かそうとする神経系の命令では、なんと神経系の命令の方が0.3〜0.4秒ほど先に発生する。詳しくは『マインド・タイム 脳と意識の時間』を参照のこと。

*3:多分……

*4:実はひとりっ子 | 種類,ハヤカワ文庫SF | ハヤカワ・オンラインでは「本格」というタグがついている。

*5:この部分のロジックはさっぱり分からないです……