ヱヴァンゲリヲン新劇場版

 ※ネタバレあり!
 見終わって頭に浮かんだのは、なんて良くできた二次創作だろう、であった。
 制作の報に接したのがちょうど去年の9月9日。そのときには終わったものに対して何をするんだろうとあまり期待はしていなかった。今夏にBSでやっていた『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(これも95年公開)を見ると、その映像的な新鮮さというものが全くなくなっていて、12年という年月の大きさを改めて感じたのだった。
 劇場へと実際に歩を運んだ結果見たものは、『エヴァ』を踏襲しつつもそれを徹底的にリファインした映像であった。思い出フィルターがかかる人でなくとも、金を払う価値は十分にあると思う。
 ストーリー的なことを追ってみると、圧縮のためとは言い切れない『エヴァ』と『ヱヴァ』の差が見えてくる。海が赤かったり、使徒の順番が違っていたり、ちょっとばかしヘタレ具合の減ったシンジがいたり、そして次回予告でのカヲルである。

序(冒頭楽章)は緩徐かつ非拍節的。破(中間楽章)は緩徐ながら拍節的。急(終楽章)は急速で拍節的。
序破急(じょはきゅう)の意味 - goo国語辞書

 「序」では少しずつの違和感であったのが、「破」以降にどう変わっていき、最終的にどこへとたどり着くのか純粋に続きが楽しみである。各所で予想されていることだけど、劇場版の「キモチワルイ」の後の世界を描いたのが『ヱヴァ』って予想くらいは軽く覆して欲しい。
 といった辺りが、メタに入らない感想。
 「オリジナル」と「コピー」の境界線が消失するとか、「二次創作」だからといって「一次」に劣るわけではないとか、そもそも「オリジナリティ」なんて近代の発明だといった言説を散々聞いてきて、そういう認識を持っているつもりだった。
 しかし、『エヴァ』だけは別だった。12年前に聞いた「ノン子とのび太のアニメスクランブル」の庵野秀明がゲストだった回から「エヴァンゲリオン」という名前を追っかけていた中高時代の体験は、年長の人達に『エヴァ』がいかに先行作品の結節点であるかという点を説かれても、あくまであれがオリジナルだという思いを抱かせていたんだと思う。一時は、死海文書を読めばこの世が分ると本気で信じていたし。
 つまり、私にとって『エヴァ』は交換不可能な部品で精緻に構築されたマンダラだったのだ。しかし、ネルフやゼーレのマークが変わっていたのを見たとき、『エヴァ』は必然性を持って作られていたのだという確信が自分の中で無くなっていることに気付いた。
 A10神経だって、セントラルドグマだって、言葉のひびきだけではワクワクできなくなっていて、最終話付近の「作画崩壊」も演出であったと知っている。

山賀 『エヴァンゲリオン』の「破綻した制作状況のもとに、最後は全然できなくなっちゃって、こうなっちゃいました」、というのはあれ演出ですから。ある意味確かに苦しくなっていましたけど、完全に破綻するまで苦しくないのは、確かですから。
(中略)
そこそこのつまらない後半にするぐらいなら、「これはもう、大変なことになってるんだ!」ってやっちゃおうというのが、庵野の意図です。
SF Japan (Vol.05(西暦2002年夏季号)) (Roman album)

 まさに、「発泡スチロール製のシヴァ神」だったんだと「理解」したのだった。
 私の認識が変った12年というのは、タイガースがジャイアンツとの首位決戦できるチームになるまでの過程でもあるわけで、そう考えると短いようで長い道のりなのかもしれない。自分が首位決戦をやっているかと聞かれると、全くそんなことはないんだけれど。