『青猫の街』

舞台は1996年、Windows 95が発売されて、猫も杓子もパソコンでインターネットだった頃のお話。
帯のあおりは

「インターネットという悪意の暗闇を描くサイバーノベル」
「心ひそかに待望していた新タイプの小説が、ついに出現した。荒俣宏

といった感じ。わざわざ左開きの横書きにして、ネットでのやりとりを小説に導入してみようとすることが、それだけでそれなりの効果を持っていた時代の作品なんだろう。これの出版が1998年で、例えば『共生虫』が2000年だったりするのだし、先駆けではあると思う。
実質的な私のネット歴は2001年からだから、この辺りの「歴史」についてはよくわからない。でも、今のネットとは隔世の感がある。そのうち『教科書には載らない』辺りを積んでみるかも。
主人公はSEでSFファンだったりするのだが、そのモノローグで

1996年11月現在、人類の新たな知性への飛躍も、有人惑星探査も、パンナム宇宙旅行機で行く月旅行も、殺意を抱く人工知能も、それどころか人間に完勝できるチェスコンピューターさえ実現していない。それらの事象のいくつかは、未来永劫実現しないような気さえした。
でも、いつの間にそんなことになってしまったんだろう?

なんてのが出てくる。この感覚は、そのまま作品全体に通底するノスタルジーへと繋がっている。その郷愁の向かう先が80年代のパソコン通信だったりする辺りも、この作品の面白い所。
ここでよくよく考えてみると、チェスコンピューターは1997年*1に実現しているし、作中時間から10年たった今では、明らかに技術面で世の中は変化していて、それによって生活も変わってきている。ブロードバンドや携帯の普及だったり、それに伴うネット、オフラインの変わりようについては、いくらでも例を挙げられると思う。現在がサイバーパンクそのものだとは言えないにしても、「変化」は確実に起こっているのである*2
では、何故それを感じられないのかと考えてみると、そもそもそういったコミュニケーション面での変化は、あまり「予測」されてこなかった事態であることが大きいのかもしれない。
作品の方については、「反転」からあまりひっくり返った感じを受けなかったし、青猫の書き方も中途半端ではないか。謎の解明も、イーガンならもう一歩押し進めているだろうと。

*1:疑惑つきだが

*2:戯言と書いて「たわごと」と読ませていたりもする。