ひぐらしのなく頃に 礼

 昨年、さんざん「ミステリ」ファンの人たちと話をして、『ひぐらし』は「ミステリ」ではないという結論を得た。
 一方で、私は『ひぐらし』はSFであると考えている。以下、その論拠。
 SFの面白さの一つに思考実験の面白さというものがある。思考実験とは、もしクジラを飼う牧場を作ったら?とか、もしヒトと見分けのつかないロボットがいたら?といった仮定を行うことで、その先どうなるかという論理的な帰結を考えていくことである。
 この場合、論理そのものを楽しむこともできるし、その結論と「現実」との差を考えることで浮かび上がる現実の価値観の相対化というのも魅力だと思う。
 ネタバレ注意!
 『ひぐらし』の場合。
 もし何度でも最初に戻って選択を変えることができたなら?という仮定に基づく思考実験だったと思う。
 そして、そこから浮かび上がってくるものは、「選択」にはどういう「意味」があるのかという問いであった。「賽殺し編*1」でも、その構図は保持されている。梨花が迷い込んだ世界は、誰にも罪はないが、元の世界にいた「キャラクター」が自身を除いて一人もいない世界だった。その居心地が悪い世界に存在し続けることと、母を殺してでも元の仲間のいる世界に戻ることとを天秤にかけて、梨花は戻ることを選ぶ。
 天秤にのせたものが何だったのかということや、その倫理にまで立ち入ることは今回はしないが、強調したいのは、「選択」が行われたということである。サイコロの目のようにランダムな事象ではなく、人の意思によって選び取られた世界。
 ここで想起されるのが、イーガンの「ひとりっ子」*2
 量子力学多世界解釈に基づくなら、たとえある選択を行ったとしても、別の世界においてはその選択肢を選ばなかった自分がいるのではないか、その場合、自身の選択には何の意味もないのではないか、というオブセッションに取り付かれた人の話であった。
 いずれも、現代社会における選択肢の多様化とそれによる不自由を描き出した傑作だと思う。
 結論としては『動物化するポストモダン2』が楽しみだなと。

*1:意味深なタイトル

*2:他にもいくらでもあるけど